マイナス23時のやかん
シュンシュンシュン…。
湯気の音。
お湯の沸く音が響く台所。
ただやかんを見つめていた。
夜中の台所、
奥の部屋にいるあの人が
起きてこないことを願う。
ずっと無言でいた。
顔も合わさないでいた。
あの日から、
決定的になった…。
***
それを知ったのは偶然。
たまたま、見てしまった携帯電話の着信メール。
相手は男性だと思っていた。
よくやり取りしている人だ。
夫が以前勤めていた会社。
転職する前の職場の人だと、わたしには説明していた。
携帯電話の着信履歴がヘッド画面に表示された。
(どうしたんですか?)
一行。
何かおかしい。
予感だった。
気づかれないように携帯を手にした。
メールの履歴を探る。
同じ人とのやり取りが頻繁にされていた。
毎日だった。
この時、初めて知った。
***
夜中に台所に立つ。
コーヒーが飲みたかった。
夜更けにカフェインを摂ると
余計に眠れなくなるだろう。
解っている。
でも、どうせ眠れないのだ。
***
メールの相手は女性だった。
一番古いメールは2年前だった。
でも知ってる。
その名前はもっと昔からやり取りしていた人。
男だとわざわざ説明していた人。
携帯の着信には名前の一文字を削っていた。
それで男性名だと偽っていた。
そう。
嘘をついていた。
騙していた。
長い時間。
妻であるわたしに…。
***
コーヒーサーバーに豆を注ぐ。
お湯が沸くのを待つ。
やかんを眺める。
水が熱を帯びる。
グラグラと動く音がする。
***
夫が怪我をして入院した時、命に関わる状態だった。
この人と老後の人生を共に生きるつもりだった。
一緒に最後まで暮らしましょう。
たとえ障害が残っても…。
覚悟を決めていた。
でも、夫は皮肉に笑って
(今、俺が死ねば保険金も入るから楽に暮らせるよ。)
と、冗談を言った。
笑えないよ。と、わたしは答えた。
あの時、あれは冗談ではなかったのかもしれない。
わたしとの人生は、考えていなかったのだ。
メールを確認して初めて知った。
相手の人も病院に行っている。
身体を拭いてもらったそうだ。
わたしには、痛むから触れるな。
そう言った…。
***
思い出したくない記憶。
何度も消し去ろうとした記憶。
わたしは毎日病院に行っていた。
1時間以上かかる距離を毎日。
電車の定期券まで購入して通った。
夫は当たり前のように言った。
(毎日来るなんて凄いね。)
他人事のように言った。
***
襖の奥から布団の衣擦れの音がした。
夫が寝返りをしたのだろう。
思わず息と止める。
動きを止めて、様子を伺う。
ただ寝返りをしただけのようだ。
夫もわたしが台所にいることは
わかっているのだろう。
だから起きては来ないはずだ。
関わるようなことはしないはずだ。
あの日から、夫は、
言い訳もしない。
説明もしない。
お互い口をきかない。
パート先の人達との送別会の日。
わたしが帰りが遅くなると告げた日。
あの日から…。
***
退院して自宅療養が終わって、
職場に復帰した夫との生活。
わたしは問い詰めなかった。
明らかな不貞行為の内容のメールについて、
確認もしていない。
これまでの生活を崩さないようにしていた。
入院して、手術をして、
命が助かった。
これは、良かった事だ。
幸いな事だ。
波風を立てて、体調を悪化させたくなかった。
そう、
表面上は普通にしていた。
夫が退院して、自宅に戻ってからも、
いつもと変わらず食事を作り、
掃除をして、洗濯物を片付ける。
時に笑顔で話をする。
心の中はどんな状態だったとしても…。
***
夫が普通の生活に戻るまで半年以上かかった。
生活費が不足するので、わたしはこれまで勤めていたパートの他に、
派遣会社に登録して掛け持ちの仕事をする様になっていた。
だけど、夫が退院して、職場に復帰したのを機に、
パートの方を辞めることにした。
パート先の店長が送別会をしてくれるという。
入院していた夫を気遣って、ずっとそういう集まりに顔を出していなかった。
でも最後だし、夫も今は問題なく通勤している。
だから言った。
その日だけは、帰りが遅くなるけどいいよね?
ご飯作っておくから。
夫は答えた。
分かった。と…。
***
その日。
わたしの帰宅は夜10時頃だった。
家に帰ったら夫はまだ帰って来ていなかった。
会社は、大怪我をした夫を気遣って残業はさせていなかった。
だから、残業ではない。
わたしが遅くなると告げた日に、まだ帰って来ていない。
わたしは玄関に鍵を掛けた。
今までは、夫が帰宅していない時に鍵を掛けたことはない。
いつでもすぐ入れるようにしておいた。
でも、その日は鍵を掛けた。
どうせ夫は家の鍵は持っているのだ。
入れないことはないのだ。
***
帰宅した夫は、玄関に鍵がかかっているのを知って何かを察したようだ。
ただいまの声もかけず、そのまま台所へ行き、用意しておいた食事を食べたようだった。
わたしに声をかけず、自分の寝室へ向かった。
退院後、夫の寝室を和室に変更した。
万が一、ベットから落ちると怪我に影響するから布団にしたので…。
寝室は別れていた。
幸いだった。
わたしは自分の寝室から一歩も出なかった。
次の日の朝。
いつもは自分で片付けない夫の靴が、
下駄箱に仕舞われていた…。
***
やかんのお湯が沸騰する。
やかんに溜めた水が沸騰する。
注ぎ口から湯気が吹き出す。
あふれるように吹き出していく。
天井を濡らす蒸気。
炎を止めて…
やかんのお湯を注いでいく。

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