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ミニ・ストーリー⑥|マイナス23時のやかん

マイナス23時のやかん

シュンシュンシュン…。
湯気の音。

お湯の沸く音が響く台所。

ただやかんを見つめていた。


夜中の台所、
奥の部屋にいるあの人が
起きてこないことを願う。

ずっと無言でいた。
顔も合わさないでいた。

あの日から、
決定的になった…。

***

それを知ったのは偶然。

たまたま、見てしまった携帯電話の着信メール。

相手は男性だと思っていた。
よくやり取りしている人だ。

夫が以前勤めていた会社。
転職する前の職場の人だと、わたしには説明していた。

携帯電話の着信履歴がヘッド画面に表示された。

(どうしたんですか?)

一行。

何かおかしい。
予感だった。

気づかれないように携帯を手にした。

メールの履歴を探る。

同じ人とのやり取りが頻繁にされていた。

毎日だった。

この時、初めて知った。

***

夜中に台所に立つ。

コーヒーが飲みたかった。

夜更けにカフェインを摂ると
余計に眠れなくなるだろう。

解っている。
でも、どうせ眠れないのだ。

***

メールの相手は女性だった。
一番古いメールは2年前だった。

でも知ってる。

その名前はもっと昔からやり取りしていた人。

男だとわざわざ説明していた人。

携帯の着信には名前の一文字を削っていた。
それで男性名だと偽っていた。

そう。
嘘をついていた。

騙していた。

長い時間。

妻であるわたしに…。

***

コーヒーサーバーに豆を注ぐ。

お湯が沸くのを待つ。

やかんを眺める。

水が熱を帯びる。

グラグラと動く音がする。

***

夫が怪我をして入院した時、命に関わる状態だった。

この人と老後の人生を共に生きるつもりだった。
一緒に最後まで暮らしましょう。
たとえ障害が残っても…。

覚悟を決めていた。

でも、夫は皮肉に笑って
(今、俺が死ねば保険金も入るから楽に暮らせるよ。)

と、冗談を言った。

笑えないよ。と、わたしは答えた。

あの時、あれは冗談ではなかったのかもしれない。

わたしとの人生は、考えていなかったのだ。

メールを確認して初めて知った。
相手の人も病院に行っている。

身体を拭いてもらったそうだ。

わたしには、痛むから触れるな。
そう言った…。

***

思い出したくない記憶。
何度も消し去ろうとした記憶。

わたしは毎日病院に行っていた。

1時間以上かかる距離を毎日。
電車の定期券まで購入して通った。

夫は当たり前のように言った。

(毎日来るなんて凄いね。)

他人事のように言った。

***

襖の奥から布団の衣擦れの音がした。
夫が寝返りをしたのだろう。

思わず息と止める。
動きを止めて、様子を伺う。

ただ寝返りをしただけのようだ。

夫もわたしが台所にいることは
わかっているのだろう。

だから起きては来ないはずだ。

関わるようなことはしないはずだ。

あの日から、夫は、
言い訳もしない。
説明もしない。

お互い口をきかない。

パート先の人達との送別会の日。
わたしが帰りが遅くなると告げた日。

あの日から…。

***

退院して自宅療養が終わって、
職場に復帰した夫との生活。

わたしは問い詰めなかった。

明らかな不貞行為の内容のメールについて、
確認もしていない。

これまでの生活を崩さないようにしていた。

入院して、手術をして、
命が助かった。

これは、良かった事だ。
幸いな事だ。

波風を立てて、体調を悪化させたくなかった。

そう、
表面上は普通にしていた。

夫が退院して、自宅に戻ってからも、
いつもと変わらず食事を作り、
掃除をして、洗濯物を片付ける。

時に笑顔で話をする。

心の中はどんな状態だったとしても…。

***

夫が普通の生活に戻るまで半年以上かかった。

生活費が不足するので、わたしはこれまで勤めていたパートの他に、
派遣会社に登録して掛け持ちの仕事をする様になっていた。

だけど、夫が退院して、職場に復帰したのを機に、
パートの方を辞めることにした。

パート先の店長が送別会をしてくれるという。

入院していた夫を気遣って、ずっとそういう集まりに顔を出していなかった。
でも最後だし、夫も今は問題なく通勤している。

だから言った。

その日だけは、帰りが遅くなるけどいいよね?
ご飯作っておくから。

夫は答えた。

分かった。と…。

***

その日。

わたしの帰宅は夜10時頃だった。

家に帰ったら夫はまだ帰って来ていなかった。

会社は、大怪我をした夫を気遣って残業はさせていなかった。

だから、残業ではない。

わたしが遅くなると告げた日に、まだ帰って来ていない。

わたしは玄関に鍵を掛けた。

今までは、夫が帰宅していない時に鍵を掛けたことはない。
いつでもすぐ入れるようにしておいた。

でも、その日は鍵を掛けた。

どうせ夫は家の鍵は持っているのだ。
入れないことはないのだ。

***

帰宅した夫は、玄関に鍵がかかっているのを知って何かを察したようだ。

ただいまの声もかけず、そのまま台所へ行き、用意しておいた食事を食べたようだった。
わたしに声をかけず、自分の寝室へ向かった。

退院後、夫の寝室を和室に変更した。

万が一、ベットから落ちると怪我に影響するから布団にしたので…。

寝室は別れていた。

幸いだった。

わたしは自分の寝室から一歩も出なかった。

次の日の朝。

いつもは自分で片付けない夫の靴が、
下駄箱に仕舞われていた…。

***

やかんのお湯が沸騰する。
やかんに溜めた水が沸騰する。

注ぎ口から湯気が吹き出す。
あふれるように吹き出していく。

天井を濡らす蒸気。

炎を止めて…

やかんのお湯を注いでいく。

湯気に囲まれたやかんの象徴イラスト

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